2018年02月08日

新刊『大隈重信』の「はじめに」を公開します(中央公論新社(中公叢書)より本日発売!)

大隈重信 - 民意と統治の相克 (中公叢書) このたび、中央公論新社より、『大隈重信 - 民意と統治の相克』 (中公叢書)を刊行させていただくことになりました。amazonでは本日(2017年2月8日)から発売になりました。都内の大きな書店であれば今日・明日頃から並ぶと思います(正式な発売日は2月10日です)。
 大隈の評伝はこれまでもいくつか出ていますが、本書の執筆の意図を知っていただくために、「はじめに」にあたる部分を以下に掲載させていただきます。ご興味を持たれた方は手にとってお読みいただければ幸いです。
 なお、価格2200円+税は高いとお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、中身は495ページもありますので、ボリュームを考えれば非常に安い本だと思います。全ページコピーするよりも安いです(笑)。

   はじめに

 国会議事堂の中央広場には、伊藤博文・板垣退助の銅像とともに、大隈重信の銅像が置かれている。大隈は早くから議会政治と政党内閣制の必要を唱えた政治家として、議会政治の三恩人の一人とされる。また、早稲田大学の創設者として、慶応義塾の福沢諭吉と並び称されることも多い。

 しかし、福沢の肖像が現在一万円紙幣に使用され、伊藤博文・板垣退助もかつて紙幣にその肖像が印刷されていたのに対して、大隈は、いまだ紙幣にその顔を使われたことがない。もとより、紙幣の肖像とされたか否かがその人物の評価の基準となるわけではないが、現在の通貨単位である「円」を制定したのがほかならぬ大隈であることを考えるならば、大隈がこれまで一度も紙幣の顔となっていないのは不思議なことだと思われる方も多いのではないか。

 その理由は定かではない。中国に対する二十一箇条要求の際の首相であったということが関係しているという説もある。確かにそれも一つの理由かもしれない。しかしそれを言うならば、福沢諭吉もまた、「脱亜論」の提唱者に比定され、対外認識における問題点を指摘されることが多かった。とするならば、これ以外にも何か理由があるはずである。他に考えられる要因としては、大隈が早稲田大学の創設者であるがゆえに、特定の学校の「恩人」を紙幣とすることへの抵抗感が存在しているのではないかとも考えられる。その点では、福沢諭吉もまた慶応義塾の創設者であるが、福沢の場合、丸山真男をはじめとする錚々たる研究者による研究の蓄積によって、近代日本思想史上の巨人としての評価が定着しており、そのイメージは慶応義塾の創設者としての評価をはるかに超えている。それに対して大隈の場合、伝記の多くは早稲田大学関係者の手になるものであり、その内容も大学関係者がその創設者を「顕彰」するという色合いが濃かった。そのことが大隈=早稲田とのイメージを増幅させ、かえって近代史のなかの大隈の役割を矮小化してきたのではないか。また大隈は思想家ではなく政治家であり、それゆえに敵対者も多かった。

 特に従来の近代史研究では、大隈が自ら文字を書かない人間であったこともあり、彼と政治的敵対関係にあった人々の史料(たとえば、政府内保守派であった佐佐木高行の日記や、藩閥政府の密偵史料、さらには大隈系政党と対峙していた立憲政友会の原敬の日記など)が中心史料として多く用いられてきた。大隈の敵対者であるがゆえに、それら史料には噂の類に属する出処の怪しい情報も含めて、大隈に関するネガティヴな記述が多い。それゆえ、それらの史料を読んだ多くの研究者は大隈に負のイメージを抱くようになり、そのことが間接的に大隈の研究や評伝の少なさにつながってきたようにも思われる。

 現在利用できる大隈に関する評伝の多くは、明治一四年の政変と政党(立憲改進党)結成前後までに記述の大部分が割かれている。しかし実は大隈は、明治後半期から大正期にかけて政党政治の堕落をかなり厳しく批判してもいる。また自ら政党を指導していくなかで、理想通りにはいかない厳しい現実に直面し、多くの挫折をも経験した。そうした大隈の政党運営の模索と苦闘の軌跡のなかには、たとえば政党と官僚との関係のあり方や、民意と統治の論理との矛盾をいかにして調和させていくかという問題、あるいは党内派閥の統御の問題など、今日につながるさまざまな論点が含まれている。とりわけ大隈が組織した二度の内閣は、大隈人気=民意を背景として成立したがゆえに、伊藤博文や山県有朋のような藩閥政治家(彼らは民意から超然たりうる立場であった)や、官僚と協調してその力を借りながら内閣を運営した原敬など立憲政友会系の内閣とは異なる厳しい困難、すなわち民意と統治との相克という難問に直面せざるをえなかった。大隈の足跡には、そうした困難を経ているがゆえに、現在の政治のあり方にも通底する数多くの問題を見出すことができる。

 また、大隈が活動した分野は、政治のみにとどまらず、驚くほどに幅広い。たとえば、我々が日頃使用する交通手段である鉄道、自動車、飛行機は、そのいずれも、大隈が日本への移入に大きく尽力したものである。先に触れた「円」の導入もまた然り。大隈の事蹟は、近代日本の基盤を形づくる数多くの分野にわたっており、今日の日本にまでつながるものも多い。さらに彼は、近代国家を支える分厚い「民」の力の育成を主眼に、数多くの文化的活動や講演活動を行なっている。本書では、そうした政治以外の分野をも含む幅広い大隈の活動にも焦点を当て、また従来の評伝で記述の薄かった明治後半期から大正期にかけての活動を追うことで、これまで語られている以上に多彩な大隈の活動の軌跡と、同時代におけるその絶大な人気の秘密を明らかにし、政治史だけではなく、より広く日本近代史全体のなかに大隈を位置付けていきたい。

 もちろん本書は、これまでの評伝のように大隈の「顕彰」を意図するものではない。筆者もまた早稲田大学に籍を置くものではあるが、本書では、あくまで史料に即して大隈の活動を「検証」することを目指した。その際、大隈と政治的に対立していた人物の史料や、出処の怪しい密偵情報などはなるべく避け、使用する際にはしっかりとした史料批判を心がけた。そのうえで、本書では、大隈の日本近代史における軌跡を、その挫折や失敗、負の部分までをも含めて明らかにしていく。というのも、大隈の栄光だけでなく、そうした挫折や負の部分のなかに、現在の我々にとって新たな発見をもたらしうる材料が含まれていると信じるからである。現代社会のあり方や我々の生き様につながる何かを、本書のなかから見つけていただければ幸いである。

大隈重信 - 民意と統治の相克 (中公叢書)
真辺 将之
中央公論新社
売り上げランキング: 39,076
posted by Webmaster at 16:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 研究関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月15日

関西学院作成の「大隈伯爵歓迎歌」

早稲田の 偉人よ 幸くあれよ
  私学の 誇りよ 幸くあれよ
自由と 正義と 理想のため
  天下の 青年 教へそだつ

君こそ われらの 光なれや
  大隈伯爵 万歳 万歳 万歳
日本の未来を 負ひて立てる
  われらの 使命は 高く遠し
先進後進 心あはせ
  世界の日本を 築きあげむ

君こそ われらの 光なれや
  大隈伯爵 万歳 万歳 万歳


1913(大正2年)秋、大隈重信は関西・四国・九州方面に講演旅行に出た。
この歌は、その九州からの帰途11月26日に関西学院を訪問した際に、関西学院校歌の替え歌として作られたものである。
大隈は講演旅行各地で大歓迎を受けているが、関西学院の職員・学生は、前日大隈一行が神戸に到着した際にも提灯行列を行って歓迎、また26日神戸を離れる際にも提灯行列で送り出すなど、特に強い歓迎ぶりを示している。この歌は、迎えの提灯行列、大隈の講演の前後の合計3回にわたって歌われた。
関西学院と早稲田は、運動部同士が対戦することはあっても、さほど強い交流関係にあったわけではない。大隈が援助した学校としては、同志社、日本女子大学などが知られているが、関西学院に関してはそうした話は聞かない。いったいなぜ関西学院がここまで熱烈な歓迎ぶりを示したのかということは、興味深い問題である。なおこの時、大隈は講堂入り口左側に樅の木を紀念植樹したというが、この木が今も生えているのかどうかということとあわせて、いずれ調べてみたいと思っている。

ちなみにこの約1ヶ月の講演旅行での総講演時間は54時間57分、聴衆は16万7100人にのぼった。
はからずも翌年、第二次大隈内閣が組閣されるが、こうした講演旅行で大隈の姿を目にした聴衆の多くは、その後大隈びいきとなり、それが大隈の重要な政治的リソースとなっていくこととなった。

大隈重信 - 民意と統治の相克
真辺 将之
中央公論新社
売り上げランキング: 370,046


元勲・財閥の邸宅―伊藤博文、山縣有朋、西園寺公望、三井、岩崎、住友…の邸宅・別邸20 (JTBキャンブックス 文学歴史 26)
和田 久士 鈴木 博之
ジェイティビィパブリッシング
売り上げランキング: 64414
おすすめ度の平均: 5.0
5 世紀を超えて伝わってくる美しさと凛とした佇まい
5 皇族版とは全然違う建物だった
5 明治の香り

posted by Webmaster at 14:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 研究関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月22日

歴史小説>歴史学

12月17日に読売新聞の大阪版・高知版などに掲載された記事に「土佐藩京都藩邸資料 3人仮購入で県外流出防ぐ」というものがありました。記事の内容を要約すると「坂本龍馬の寺田屋事件についての報告書写しなどを含む574点の土佐藩の京都藩邸資料が、古物商から県外に売られそうになったところを、「土佐歴史資料研究会」のメンバー3人がとりあえず私費で購入して県外流出を防ぎ、その功績を県から表彰された」というようなものでした。高知県は11月末、これを1650万円で購入し、大崎富夫・県文化生活部長は「全国的にも反響の大きい資料。おかげで散逸させずにすんだ。ありがたい」と礼を述べたとのことでした。

既にWeb上では消えてしまっているのでリンクを貼れないのですが、手元にあるコピーによると、この記事の末尾には、資料が散逸されそうであるとのことを前記研究会に紹介した県立坂本龍馬記念館の森館長のコメントとして「この資料があれば歴史小説がもっと克明になるかも。膨大な資料なので、チームを作って解明していきたい」という談話が載っています。ちょっと残念なコメントではないでしょうか。

世の中の歴史認識が、やはり歴史小説>歴史学なのだということが、このコメントからうかがえます。しかし、資料の散逸を防ぐ理由が「歴史小説が克明になる」では、歴史ってのは結局娯楽でしかないのか、それじゃ必要ないんじゃないの?ということにもなりかねません。県立の記念館の館長のコメントがこうなのですから、世間一般の人々の認識は推して知るべきでしょう。

歴史学という学問が細分化・深化の一途をたどっています。こうしたなか、歴史学の論文や研究書を読みこなせる一般の人々というのはなかなか存在しなくなりました。かつて「自由民権百年運動」が人々に大きな影響力を持った時代とは違います。そうした中、歴史学の意義をどう一般の人々に伝えていくのかということが問われているといえるでしょう。しかし、これは言うは易く、行うは難し、です。

というのも、一般の人々が歴史小説を読むのはあくまでエンターテイメントとしてです。楽しみを得るためです。それに対して、学問としての歴史学はエンターテイメントではありません。単に「歴史の面白さ」を伝えるだけでは、空想を交えることも可能な歴史小説には勝てるはずもありません。しかし、面白みのない研究を人々が読もうとしないというのもまた事実。こうした状況のなかで、歴史学の徒は、いったいどうすればいいのか、頭を抱えるところです。

『坂の上の雲』のドラマ化で、近代史に関心を持つ人々も増えるでしょう。これはある意味チャンスであると思います。とはいえ、「司馬遼太郎の歴史観の誤りを糾す」という類の書籍や講演などがいくつかなされているようですが、それは、ちょっと違うのではないかという気がします。エンターテイメントである演劇や小説の作家を、歴史学の側が批判して意味があるとは、私は思いません。エンターテイナーにはエンターテイナーの使命があります。それは歴史学のミッションとは異なるものです。異なる目的のために創作活動を行なっている人を批判しても、決して生産的ではないし、そのようなものをどれだけの一般市民が読むのかも疑問です。

必要なのは、小説や演劇の歴史認識への批判よりも、むしろ、小説や演劇以上に市民に訴えかける力を持ちえていない歴史学への自己批判なのではないでしょうか。司馬遼太郎批判の本が、司馬遼太郎の作品以上に、人々に語りかける力を持っているでしょうか?否だと思います。市民に語りかける必要などない、という方ももしかしたらいるかもしれません。しかし少なくとも、歴史学という学問の意義だけは伝えていかない限り、このままでは歴史学自体が「事業仕分け」されてしまうかもしれません。いや現実に、大学のポスト削減などで、実際にそうなりつつあるように思います(もちろん意義のない学問なら、仕分けされてしまっても構わないのですが、歴史学は諸学の根本に位置する大事な学問だと私は考えます。これについては後日いずれ語りたいと思います)。

かくいう私自身、研究の殻に閉じこもってしまって、いくつか依頼された講演などをこなすほかは、市民に対して語り掛けること、歴史学の意義をアピールすることもほとんど出来ていません。日々の生活の糧を得る必要もあって、なかなかそうしたことには時間を割けないのが現実ですが、今後は、そうした発信を、少しでも心がけていけたらと思います。このブログもそうした手段の一つとして発展させることができたらと思います。

posted by Webmaster at 23:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 研究関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月08日

引用文の怪

田川大吉郎の『政党及び政党史』(1929年刊)を読んでいたところ、1860(万延元)年、幕府が派遣した遣米使節副使の村垣範正が、アメリカで議会の論戦を観察した際に日記に記した言葉として次のような引用があった。

もゝ引や、腹がけ様な着物を纏へる者、凡そ五六百人、一堂に会して、数時間に亘って激論を交わす。中にも頭らしき者、高き所に登りて、拳にて卓を打ち腕を振り上げ、総髪を振り乱して論ずるさま、魚市場のせり売のごとく

田川は上記の観察を「批評し得て極めて妙」「その人の絶倫なる働きを見る」とした上で、さらに村垣の日記には次のように書かれているとしている。

我国の諸事、居住まいを正し、対手を正視し、いんぎんに対談する風儀、露ほども窺はれず、嘆はしき事なり

この村垣の日記にある議会見物の記述は割と有名なもので、最初の方の引用文は、昔尾佐竹猛が引いているのをどこかで読んだ覚えがあったが、後の方の引用を読んで、ここまで明確な比較の言葉があるとは知らず、一度原本を確認してみようと思って、図書館で調べてみた。

ところが、実際に日記を調べてみると、田川が引いている文章が、どんなに捜しても、無い。むろん、4月4日の条には、確かに米国議会観覧の記述があるが、その文章は「凡四五十人も並居て其中一人立て大音声に罵手真似なとして狂人の如し」「国政のやんことなき評議なれと例のもゝ引掛筒袖にて大音に罵るさま副統領の高き所に居る体抔我日本橋の魚市のさまによく似たりとひそかに語合たり」というもので、趣旨においては田川の引用と近いものがあるものの、文章はまるで異なる。

他の箇所に、地方議会などの観察記録があってそっちを引いたのかと思ってくまなく捜してみるも、見当たらない。翻刻の異版本なども確認してみたが、どれも同じであって、田川の引用のような文章は無い。別の日記とか報告書とかのものかとも思っていろいろ調べてみたが、そのようなものも見当たらないようである。念のために研究書もいくつか見てみたが、引かれているのはどれも同じ文章であった。

ということは、田川の引いているものが、間違いということになる。田川が、昔読んだあいまいな記憶に頼って書いたものなのだろうか。しかし、それにしては、一字下げにして、明確に原文からの引用という形式で引かれているのが気にかかる。しかも、「我国の諸事、居住まいを正し、対手を正視し、いんぎんに対談する風儀、露ほども窺はれず、嘆はしき事なり」というような文章は、それに類似する文章すら村垣日記には全く見当たらない。とすると、田川が自分で勝手に付け加えたということになるが、しかし前後の文脈から言ってわざわざ捏造する必要のある部分ではない。何らかの勘違いで済ますには、あまりに大きな違いである。

田川は歴史家ではないから・・・と言ってしまえばそれまでだが、あまりに引用文が違いすぎて、どうも腑に落ちない部分がある。他のどこかに、こういう文章があるような気もしてならないのだが・・・やはり単なる捏造あるいは記憶違いなのだろうか?

posted by Webmaster at 22:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 研究関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月20日

大東文化大学大東文化歴史資料館「井上哲次郎・新資料の紹介〜大東文化学院創設をめぐる人々(一)〜」

080919_131719.jpg 大東文化歴史資料館展示室で行われている「井上哲次郎・新資料の紹介〜大東文化学院創設をめぐる人々(一)〜」を見てきました。

 内容的には、展示スペースの関係からか、実物資料の展示が少なくて、半分はパネルだったので、ちょっと残念でした。また資料の来歴や全体像についても解説がなされておらず残念。

 『大東文化歴史資料館だより』4によれば、2007年度に入手したもので、約350点にわたるとのこと。整理された暁にはより詳しい概要が明らかになるのでしょう。楽しみです。


展示は26日金曜日までです。興味ある方は急いでどうぞ。

詳しくはこちら
http://www2.daito.ac.jp/jp/modules/topics/index.php/J01-01-6564-01



posted by Webmaster at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 研究関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月31日

忍峡稜威兄と〔石+殷〕稲綺道秀

表題を見て、この名前を読めた人は、かなりのマニアですね。
両方とも、明治期の人物です。

前者「忍峡稜威兄」は、当時の史料などを見ていると時々見かける名前なんで、知っている方も多いかもしれません。
「忍峡」までが苗字で「おしお」、「稜威兄」は名前で「いずえ」と読みます。読み方は「おしおいずえ」ですが、旧仮名遣いで名前を書くと「おしほいずえ」となります。

後者は、いきなり一文字目の漢字がパソコン入力だと出てこないほどの難文字。読めた方はいるでしょうか?「〔石+殷〕稲綺」が苗字で「おたぎ」、「道秀」が名前で「みちほ」、つまり「おたぎみちほ」と読みます。


忍峡稜威兄は、岡山県出身の民権家で、明治11年6月『好事雑報』という雑誌を創刊、明治12年12月は、桜井静の呼びかけに応じて、両備三国三十一郡十一区千百七十一ヶ村六十ヶ町の総代として、国会開設建白書を奉呈した人物で、岡山県会議員も務めました。
参考:前田昌義「国会開設請願運動の備中国総代・忍峡稜威兄について」(『倉敷の歴史』14)、前田昌義「忍峡稜威兄『通俗日本国会新論』」(『岡山地方史研究』102)

〔石+殷〕稲綺道秀は『詩歌襍輯』『観光小誌』『桂林一枝』といった漢詩和歌に関する雑誌に関わっていた人物で、昭和期まで存命だったようですが、詳細はよくわかりません。


以上豆知識でした。

posted by Webmaster at 22:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 研究関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月31日

250年後に大富豪を・・・

明治34年発行の雑誌を読んでいたら、

東京市京橋区の阿部家が設立した「長期鳳尾会」なる会が、第一銀行に金3千円を250年間預け入れ、契約満期の暁には「拾弐億万円の富豪を後代に輩出するの規約書」を結んだとの記事が出ていました。


この契約って一体どうなったんでしょうね・・・。今も有効なんでしょうか。

明治34年=1901年の250年後というと、2151年。まだあと140年近くも先の話ですね。

しかし、預け入当時の3000円と、140年後の12億円と、いったい物価的にどれくらいの価値上昇になるんでしょう。インフレで事実上の元本割れになってたりして(笑)

posted by Webmaster at 20:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 研究関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月07日

早稲田大学校歌3番の歌詞について

早稲田大学校歌は、早稲田大学創立25周年を記念して、明治40年(1907年)に制定されたもので、今年でちょうど制定100周年である。歌詞とメロディの素晴らしさは多くの人を虜にし、今日では大学校歌の中でもとりわけ有名なものになっていると言って良い。学生や卒業生全体に占める校歌を歌える人間の比率も、おそらく他の大学に比べてダントツに高いのではないか。

ところが、その有名な早稲田の校歌の歌詞が間違っているのではないか、という疑惑がある。校歌3番の歌詞である。

今、大学のホームページに出ているものを見ると、3番の歌詞は次のようになっている。

あれ見よかしこの 常磐の森は
心のふるさと われらが母校
集り散じて 人は変れど
仰ぐは同じき 理想の光
いざ声そろへて 空もとどろに
われらが母校の 名をばたたへん
わせだ わせだ わせだ わせだ
わせだ わせだ わせだ

「集り散じて人は変れど仰ぐは同じき理想の光」のくだりは私も校歌の中で一番好きな部分で、歌っていると学生時代が懐かしく思い出されて涙すら出そうになるのであるが、問題の部分はそこではない。冒頭の「あれ見よかしこの、常磐の森は」の部分である。

この「かしこの」の部分が、正しくは「あしこの」なのではないか、というのが、その疑惑である。昭和中ごろまでに在籍していた卒業生の中には、「自分は学生時代『あしこの』と歌っていた。『かしこの』というのは間違いだろう」とおっしゃる方も結構多く存在するようである。大学にも問い合わせがしばしば寄せられるようだ。

冒頭でも述べたように、早稲田大学校歌が作られたのは、早稲田大学の開校25周年式典の時である。その時に歌われた歌詞を調べてみると、確かにこの時の歌詞は「あしこの」であったらしい。作曲者東儀鉄笛自筆の楽譜にも「アシコノ」と歌詞が振られている。そして何より作詞者の相馬御風自身が大正3年に書いたもののなかでも「あしこの」とハッキリ書かれているのである(毎日新聞社所蔵深見豊蔵宛書翰、この他早稲田大学図書館所蔵の御風の額にも「あしこの」とある)。

ところが、大正4年9月に、前坂重太郎が和声を作曲し東儀の校閲を経て演奏した「ワセダマーチ」の楽譜には「かしこの」と記されているらしい(筆者は現物未見)。また、昭和6年「紺碧の空」レコード発売時の校歌の歌詞や、昭和7年刊行の『早稲田の半世紀』掲載の歌詞などでは「かしこの」となっている。この頃から、「かしこの」と記された歌詞が増えてきて、それは「あしこの」と記されたものよりも圧倒的に多くなってくる。

そして何より問題なのが、昭和17年に作詞者・相馬御風が高等師範部国語漢文科卒業生のために執筆したものが、明らかに「かしこ」となっていることである。こうなってくると、単なる「間違い」では済まされなそうになってくる。何より作詞者自身が、当初「あしこの」と書いていたのに、後には「かしこの」と書くようになっているのである。

『早稲田大学百年史』の記述によれば、「あれ見よあしこの」の部分は「あ」の頭韻を踏んでおり、いわゆるalliterationの自然の調子が整えられているのであり「あしこの」でなくてはならないとの主張も存在するようである。しかしながら、作詞者の相馬御風自身が二通りの書き方をしている以上、どちらが誤りということはできないであろう。

なぜ当初「あしこの」と書いていた相馬御風が、後に「かしこの」と書くようになったのだろうか。歌いやすさを元に変改されたのか、それとも、「かしこの」という歌い方が普及してしまったためにそれを追認したのか、いずれかはわからないが、「あしこの」から「かしこの」への改変は作詞者自身が認めているものであり、「間違い」とは言えなそうである。

しかしながら、冒頭でも記したように、昭和の半ばごろまでは、「あしこの」と歌う学生も多くいたようであり、これが後に大学でも問題になったようである。理事会でもこの問題は協議され、その結果大学は昭和47年3月17日の『早稲田大学広報』にて、常任理事の名で、下記の通知文を出すことになる。

わが早稲田大学校歌は、明治40年、相馬御風作詞、東儀鉄笛作曲により、創立25周年を記念して制定され、爾来、学園関係者の間に愛唱され続けてきましたが、最近、3番第1節が、「あれ見よかしこの常磐の森に」と「あれ見よあしこの常磐の森に」の二様に歌われたり、印刷されているものが見受けられます。これは、作者相馬御風先生ご自身が両方書き残されていることに起因するものと思われますが、あとに書かれたもの(昭和17年頃の揮毫と思われる色紙)に、「あれ見よかしこの常磐の森に」と書き記されており、また、先生は昭和25年5月8日に永眠されておりますが、先生の在世中も永くこのように歌われてきたことに鑑み、今後次のように統一いたします。
(以下現行の歌詞が書かれているが省略)

このようにして、現在では「かしこの」が大学公認の正式な歌詞になっているのである。

なお、「早稲田の森」の部分を「早稲田の杜」、あるいは「常磐の森」の部分を「常磐の杜」としている歌詞をたまに見かけるが、これは相馬御風のものも、大学のHPも、みな「森」と書かれており、「杜」は誤りである。
ただし、歌詞に限定せずに考えると、大学が出した出版物などにも「早稲田の杜」という言葉はしばしば散見されるところである。こちらはいつごろから使われだした言葉かはわからないが、現在の早稲田には「森」と呼べるほどの緑はないため、こちらの方がしっくりと来る感じもする。もともと使い始めた人も、「森」の字からくる違和感をなくすために「杜」の字を当てたものであろうか。


東京六大学の歌
東京六大学の歌
posted with amazlet at 11.04.18
校歌・寮歌 慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団 早稲田大学グリークラブ 明治大学グリー・クラブ
コロムビアミュージックエンタテインメント (1999-02-20)
売り上げランキング: 109368

posted by Webmaster at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 研究関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2002年09月30日

足尾鉱毒事件と谷干城

以下は、かつて管理人が公開していたサイト「明治史研究」に掲載していたものです。閉鎖にともない、このブログに転載しました。

※以下の文章は、2002年9月に、『文人の眼』という雑誌に載せたものです。雑誌の方では、谷の書翰や書蹟の写真や、その字体についてのコメントなども付されていますので、ご興味のおありの方はぜひ雑誌の方も御覧下さい。

武人・谷干城

 谷干城の名を聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、武人としてのイメージであろう。一八七七(明治一〇)年、西南戦争に際して谷は、熊本鎮台司令長官として熊本城に籠城し、西郷軍の猛攻に耐えて官軍勝利の糸口をつかんだ。この時の名声が、谷の武人としてのイメージを作り上げている。しかしながら近年、谷干城の武人としての活躍ではなく、政治家としての側面が注目されはじめている。

 谷干城は一八三七(天保八)年、土佐国(高知県)高岡郡窪川村に生れた。家は土佐藩の学者の家であり、先祖には山崎闇斎門下の高名な神道家で儒学者の谷秦山がいる。谷干城もこうした家系の影響のもと、早くから尊王攘夷を唱えて武市瑞山とも親交を結び、戊辰戦争に際しては大監察として土佐藩兵を率いて各地を転戦した。明治以後は陸軍に奉職し、一八七三(明治六)年の佐賀の乱、翌七四年の台湾出兵、そして一八七七(明治一〇)年の西南戦争に出動して軍功を立て、一八七八(明治一一)年、陸軍中将に昇進した。しかし、この頃から次第に谷は政府主流派の動きに対して批判的な見解を持つようになって行く。一八八一(明治一四)年、開拓使官有物の払い下げが問題となると、谷は鳥尾小弥太・三浦梧楼・曽我祐準と連名で、払い下げ中止と、「国憲創立議会」の設立を主張する建白書を提出した。一八八五(明治一八)年に内閣制が施行され伊藤博文が初代首相に就任すると、谷は農商務大臣として入閣することになるが、一八八七(明治二〇)年に政府の民情を無視した欧化主義政策を批判する意見書を提出し辞職、以後は一貫して在野の立場から政府に対する批判をつづけることになる。

 一八九〇(明治二三)に帝国議会が開設されると、谷は貴族院議員に勅撰される。以後、この貴族院を足場として、谷は政府の欧化主義や、増税政策、軍備拡張などを批判していく。彼の前半生の「武人」としての側面からすると極めて意外であるが、彼は日本の対外進出を批判的な目で捉え、日露開戦に対しても反対論を唱え続けた。また、彼は小農民・貧民の保護を常に唱え続け、地租増徴問題が大きな政治的争点となると、地租増徴を主張する経済学者・田口卯吉との間で激しい論戦を繰り広げた。谷は、熱烈な国家主義者であったが、その国家主義とは、対外進出を容認するものでも、また、民衆の利益を度外視するものでもなかった。次に紹介する書翰に見られるような、谷の足尾鉱毒事件の被害農民に対する支援活動も、こうした愛民主義的な国家観の延長線上にあった。


大隈重信へ宛てた書翰を読み解く

谷干城書翰 大隈重信宛 明治三十年四月二日

時節柄特更御多忙御察申候昨日内相ニ面謁ヲ要シ候帰途御伺候処許多之御来客本日九時より参上之旨御約束申置候処過日来風邪ニ被侵居候処本日殊ニ気分不宜候間参上之儀御断申候罷出候も別儀ニ無之今般農商務省御兼任之由ニ付必ズ御良策も可有之右等御伺申度考ニ外ナラズ何分ニも貧民ト富商ト之争ヒニ付兎角貧民之味方少く富商之荷担者多く夫レ故今日ニも立至り候事故今後と雖も決而油断不相成と深く案申候幸ニ老兄御兼任之事故大英断希望いたし候本日之毎日新聞ニ老兄之御節とて鉱山之利と田地荒廃之害と比較論記有之田中正造之四万町歩と申ハ過大ニ失シ候得共凡ソ一万五千町歩より二万町歩ハ荒地可有之と申事故一刀両断之他有之間敷之ヲ断行スルニ付而も工夫其他鉱山ニ従事いたし居候者之暴動等も又不斗宜敷御料理希望ニ不堪候被害地之人民ニ於而ハ積年の損害ニ加へ昨年之大洪水ニ而一増之鉱毒ヲ重ネ候故家ニ担石之米ナク耕種之時期来ルモ施種ス可キノ地なく延引いたし候中ニハ如何之不良事ヲ生ジ候も難斗困難之余野夫等へも金策申入候者も有之候得共野夫従来只質素と節倹之二ツニ而漸く家政ヲ維持いたし居候事故金ヲ以助ケ遣候事ハ不相調候故断リ置申候一方ハ赤貧如洗徒ニ候ハヾ其競争も又困難ト云ベシ此之事情深く御洞察御明断ヲ願申候却説人材登用云云尤現今之急務ナリ世論ヲ不顧是亦御断行祈申候柴モ今度ハ採用希望いたし候先ハ右得貴意度如此御坐候匆々頓首

   四月二日    干城

   大隈伯閣下


《大意》

(略)今日お会いする約束をしていましたが、風邪のためそれができなくなりました。今回お伺いしようと思ったのは、あなたが農商務大臣を兼任されているので、足尾鉱毒事件に関して必ずや良い策をお考えのことと思い、それを聞きたかったからなのです。この事件は、貧民と富商との争いであるために、とかく貧民の味方が少なく富商の味方が多かったために放置され、今日の状態になってしまったのです。今後も油断はできません。幸いあなたが農商務大臣でありますから、大英断を希望いたします。(略)被害地の人民は、積年の損害に加え、昨年の大洪水のためにさらに鉱毒の被害が増大しており、家にわずかの米もなく、種をまく時期がきても植える土地がないという有様です。このような状態が続けば不測の事態が生ずることも考えられます。私のところにも困難のあまり金銭的な援助を頼みにきたものがいました。私はあいにく質素倹約をして漸く生活を維持している状態ですので金銭の援助は断りましたが、彼らは本当に貧しいので、運動を続けるのも困難であるに違いありません。このあたりの事情をよくご了解いただき、明断を下していただきたくお願い申し上げます。(略)

公害問題の原点―足尾鉱毒事件

 足尾鉱毒事件は、田中正造の名とともに、日本の公害問題の原点として、多くの人に知られている。栃木県足尾銅山から廃棄される鉱毒による渡良瀬川の汚染は、すでに明治一〇年代に始まっていたが、それが中央で問題化されるのは、一八九一(明治二四)年に、田中正造が帝国議会に質問書を提出し、政府糾弾の演説を行ってからのことである。

 しかし、政府は、積極的に被害を防ごうとすることはなく、鉱山を経営していた古河と農民との間に示談契約を結ばせるという方針を採った。当初被害農民も、こうした示談に応じてわずかな補償金を手にしていたが、やがて農民たちはこうした補償金が問題解決にならないことに気付き、「鉱業停止」という処置を政府に求めていくようになる。

 右の書面における「大英断」というのは、おそらくこの「鉱業停止」を視野に入れつつ、鉱毒被害の予防命令の発令を政府に求めた発言であろうと思われる。書翰を受け取った大隈重信は、前年より第二次松方正義内閣に外務大臣として入閣しており、この手紙の直前・三月三〇日より農商務大臣も兼任していた。大隈はいうまでもなく立憲改進党の創立者であり、その改進党の後身である進歩党に所属する田中正造とは、同じ陣営に属する人物であった。谷は、この大隈の農商務大臣への就任を、問題解決のチャンスと見たのである。

 この書翰より約一ヶ月前の三月一九日、谷は鉱毒被害地を実際に視察し、その惨状を目撃していた。書翰の中に「凡ソ一万五千町歩より二万町歩ハ荒地可有之」という具体的な数値が出てくるのは、この視察に基づくものであった。谷のこの行動は、当時の農商務大臣・榎本武揚を動かし、榎本は三月二三日に被害地を視察する。榎本は被害地の視察から帰ると、政府内に足尾銅山鉱毒問題調査委員会を設置し、ようやく重い腰をあげることになる。その後、農商務大臣は大隈に変わるが、谷の尽力の甲斐もあってか、五月に政府は「鉱毒予防命令」を発令し、工業主の古河に対して予防工事を命ずることになるのである。谷を含め、当時の知識人・政治家たちは、この「鉱毒予防命令」の発布による予防工事の実施に期待をかけ、これで鉱毒問題が一段落するものと考えた。

 しかし、事態は甘くは無かった。古河の鉱毒除外工事の後も、鉱毒被害が収まることはなかった。一九〇〇(明治三三)年には、鉱業停止を求めて大挙上京しようとした農民と、警官・憲兵とが群馬県川俣で衝突し、大量の負傷者と逮捕者を出すことになる(川俣事件)。田中正造もまた運動を続け、谷はそれを側面から支援し続ける。一九〇一(明治三四)年には、田中正造は衆議院議員の職を擲ち、天皇への直訴という非常手段をとることになる。このような田中の生活を心配した谷は、近衛篤麿らと協力して基金を集め、田中の生活の足しにと差し出したが、田中は頑として受け取らなかったという。

 その後、政府は古河にさらに厳重な予防工事を行うことを求め、また鉱毒被害の原因となる洪水予防のために、渡良瀬川と利根川との合流地点に位置する谷中村を廃村にして遊水地とする計画を断行した。多くの谷中村村民はわずかな補償で退去を余儀なくされ、最後まで居座り続けた人々に対しては、土地収用法に基づく強制破壊処分が待っていた。こうした過程を経て、足尾鉱毒問題はしだいに過去のものとして忘却されていく。しかし、多くの人々に忘れ去られた後もこの問題は完全に解決したわけではなく、農民たちはその後七〇年以上も闘い続けなくてはならなかったのである。

「公益」とは何か?

 足尾鉱毒問題が日本の公害問題の原点といわれることは先述した。「公害」という言葉は、一説によれば、この農民たちの運動の中で用いられた「公益を害する」という言葉に由来するものであるという。農民たちは、鉱毒が「公益を害する」ものであるから、鉱業を停止せよ、と主張したのである。

 しかし、当時の日本にとって、銅鉱業は近代化の原動力の一つであり、重要な基幹産業であった。特に足尾銅山は、全国の銅山中最大の算出量を誇っていた。政府が重い腰をなかなか上げようとしなかったのも、日本の近代化における銅鉱業の重要性に対する認識があったからである。つまり、政府にとって銅山の存在は「公益」そのものと考えられていたのである。

 ここに、農民たち、そしてそれを支援した谷干城や田中正造らの「公益」の考え方と、政府のそれとの重大な齟齬があった。谷や田中にとっての「公益」とは、一部の民衆を犠牲にして、国家の発展のみに重きを置くようなものではなかった。そうではなく、一人一人の生活の集積が「公益」そのものであったのである。谷干城が地租増徴に反対し、貧民に限りない同情を寄せたのも、こうした「公益」観念に基づいていた。しかし、政府の側は違った。谷中村を廃村にしたことに端的に現されるように、国家という器の発展のためには、一部の人間が犠牲となるのもやむをえないと考えられていた。国家に貢献する「富商」は優遇されるべきであっても、「貧民」は厄介者でしかなかったのである。

 近年よく用いられる言葉に「国益」という言葉がある。しかし我々は、この言葉を安易に使用する前に、「国益」とは何か、いや、そもそも「国」とは何なのか、いったいどうあるべきなのか、ということについて、考えてみる必要があるのではないだろうか。



<参考文献>
林英夫監修『谷干城関係文書』解説(北泉社、一九九五)
『谷干城の見た明治』(高知市立自由民権記念館、一九九九)
由井正臣『田中正造』(岩波書店、一九八四)
田村紀雄『鉱毒農民物語』(朝日新聞社、一九七五)
田中正造全集編纂会編『田中正造全集』(岩波書店、一九七七〜八〇年)
東海林吉郎・菅井益郎『通史 足尾鉱毒事件』(新曜社、一九八四)
真辺将之『大隈重信―民意と統治の相克』(中央公論新社〈中公叢書〉、二〇一七)

谷干城―憂国の明治人 (中公新書)
小林 和幸
中央公論新社
売り上げランキング: 173060

posted by Webmaster at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 研究関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする