2018年02月08日

新刊『大隈重信』の「はじめに」を公開します(中央公論新社(中公叢書)より本日発売!)

大隈重信 - 民意と統治の相克 (中公叢書) このたび、中央公論新社より、『大隈重信 - 民意と統治の相克』 (中公叢書)を刊行させていただくことになりました。amazonでは本日(2017年2月8日)から発売になりました。都内の大きな書店であれば今日・明日頃から並ぶと思います(正式な発売日は2月10日です)。
 大隈の評伝はこれまでもいくつか出ていますが、本書の執筆の意図を知っていただくために、「はじめに」にあたる部分を以下に掲載させていただきます。ご興味を持たれた方は手にとってお読みいただければ幸いです。
 なお、価格2200円+税は高いとお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、中身は495ページもありますので、ボリュームを考えれば非常に安い本だと思います。全ページコピーするよりも安いです(笑)。

   はじめに

 国会議事堂の中央広場には、伊藤博文・板垣退助の銅像とともに、大隈重信の銅像が置かれている。大隈は早くから議会政治と政党内閣制の必要を唱えた政治家として、議会政治の三恩人の一人とされる。また、早稲田大学の創設者として、慶応義塾の福沢諭吉と並び称されることも多い。

 しかし、福沢の肖像が現在一万円紙幣に使用され、伊藤博文・板垣退助もかつて紙幣にその肖像が印刷されていたのに対して、大隈は、いまだ紙幣にその顔を使われたことがない。もとより、紙幣の肖像とされたか否かがその人物の評価の基準となるわけではないが、現在の通貨単位である「円」を制定したのがほかならぬ大隈であることを考えるならば、大隈がこれまで一度も紙幣の顔となっていないのは不思議なことだと思われる方も多いのではないか。

 その理由は定かではない。中国に対する二十一箇条要求の際の首相であったということが関係しているという説もある。確かにそれも一つの理由かもしれない。しかしそれを言うならば、福沢諭吉もまた、「脱亜論」の提唱者に比定され、対外認識における問題点を指摘されることが多かった。とするならば、これ以外にも何か理由があるはずである。他に考えられる要因としては、大隈が早稲田大学の創設者であるがゆえに、特定の学校の「恩人」を紙幣とすることへの抵抗感が存在しているのではないかとも考えられる。その点では、福沢諭吉もまた慶応義塾の創設者であるが、福沢の場合、丸山真男をはじめとする錚々たる研究者による研究の蓄積によって、近代日本思想史上の巨人としての評価が定着しており、そのイメージは慶応義塾の創設者としての評価をはるかに超えている。それに対して大隈の場合、伝記の多くは早稲田大学関係者の手になるものであり、その内容も大学関係者がその創設者を「顕彰」するという色合いが濃かった。そのことが大隈=早稲田とのイメージを増幅させ、かえって近代史のなかの大隈の役割を矮小化してきたのではないか。また大隈は思想家ではなく政治家であり、それゆえに敵対者も多かった。

 特に従来の近代史研究では、大隈が自ら文字を書かない人間であったこともあり、彼と政治的敵対関係にあった人々の史料(たとえば、政府内保守派であった佐佐木高行の日記や、藩閥政府の密偵史料、さらには大隈系政党と対峙していた立憲政友会の原敬の日記など)が中心史料として多く用いられてきた。大隈の敵対者であるがゆえに、それら史料には噂の類に属する出処の怪しい情報も含めて、大隈に関するネガティヴな記述が多い。それゆえ、それらの史料を読んだ多くの研究者は大隈に負のイメージを抱くようになり、そのことが間接的に大隈の研究や評伝の少なさにつながってきたようにも思われる。

 現在利用できる大隈に関する評伝の多くは、明治一四年の政変と政党(立憲改進党)結成前後までに記述の大部分が割かれている。しかし実は大隈は、明治後半期から大正期にかけて政党政治の堕落をかなり厳しく批判してもいる。また自ら政党を指導していくなかで、理想通りにはいかない厳しい現実に直面し、多くの挫折をも経験した。そうした大隈の政党運営の模索と苦闘の軌跡のなかには、たとえば政党と官僚との関係のあり方や、民意と統治の論理との矛盾をいかにして調和させていくかという問題、あるいは党内派閥の統御の問題など、今日につながるさまざまな論点が含まれている。とりわけ大隈が組織した二度の内閣は、大隈人気=民意を背景として成立したがゆえに、伊藤博文や山県有朋のような藩閥政治家(彼らは民意から超然たりうる立場であった)や、官僚と協調してその力を借りながら内閣を運営した原敬など立憲政友会系の内閣とは異なる厳しい困難、すなわち民意と統治との相克という難問に直面せざるをえなかった。大隈の足跡には、そうした困難を経ているがゆえに、現在の政治のあり方にも通底する数多くの問題を見出すことができる。

 また、大隈が活動した分野は、政治のみにとどまらず、驚くほどに幅広い。たとえば、我々が日頃使用する交通手段である鉄道、自動車、飛行機は、そのいずれも、大隈が日本への移入に大きく尽力したものである。先に触れた「円」の導入もまた然り。大隈の事蹟は、近代日本の基盤を形づくる数多くの分野にわたっており、今日の日本にまでつながるものも多い。さらに彼は、近代国家を支える分厚い「民」の力の育成を主眼に、数多くの文化的活動や講演活動を行なっている。本書では、そうした政治以外の分野をも含む幅広い大隈の活動にも焦点を当て、また従来の評伝で記述の薄かった明治後半期から大正期にかけての活動を追うことで、これまで語られている以上に多彩な大隈の活動の軌跡と、同時代におけるその絶大な人気の秘密を明らかにし、政治史だけではなく、より広く日本近代史全体のなかに大隈を位置付けていきたい。

 もちろん本書は、これまでの評伝のように大隈の「顕彰」を意図するものではない。筆者もまた早稲田大学に籍を置くものではあるが、本書では、あくまで史料に即して大隈の活動を「検証」することを目指した。その際、大隈と政治的に対立していた人物の史料や、出処の怪しい密偵情報などはなるべく避け、使用する際にはしっかりとした史料批判を心がけた。そのうえで、本書では、大隈の日本近代史における軌跡を、その挫折や失敗、負の部分までをも含めて明らかにしていく。というのも、大隈の栄光だけでなく、そうした挫折や負の部分のなかに、現在の我々にとって新たな発見をもたらしうる材料が含まれていると信じるからである。現代社会のあり方や我々の生き様につながる何かを、本書のなかから見つけていただければ幸いである。

大隈重信 - 民意と統治の相克 (中公叢書)
真辺 将之
中央公論新社
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2017年07月06日

真辺将之『大隈重信』(中公叢書)第2章目次(数字はページ数)

 本章では、幕末に特筆すべき勲功を挙げていなかった大隈が、維新後、まずは外交、ついで財政において有能な能力を発揮し、急速に政府の要人として参議に上り詰め、近代化を実現しようと諸施策を実行していく様子を描いた。大隈は、当初木戸孝允、のち大久保利通の庇護の下、政府部内の進歩派の中核として行動し、特に伊藤博文とは終始手を取り合って近代化に邁進していた。明治維新の二つの理念のうち、「公議輿論」の重視は後回しとして、「万機親裁」の言葉に象徴される中央集権的統治機構の整備に集中していた。この時期の大隈は、圧政の元凶として地方官や保守派から指弾されるような施策すら行なっており、明らかに民意の政府への取り込みよりも、統治の論理の貫徹にこだわっていたということができる。民衆や士族に対しては時に過酷とも言える対処を行なってでも、中央集権化と財政的基盤の確立に大隈はこだわった。もちろん、「大隈参議全国一致之論議」の中で「自主ノ権」「自主自衛」に言及しているように、大隈は最終的には人民が自治的営みを行なうことが国家の富強につながるとの考えを持ってはいた。しかし当時の日本は、いまだその前提条件に達していないと大隈は認識していた。この頃の大隈は、目の前の民意に迎合することなく、統治の論理を貫徹することによって、将来的な「自治」の基盤づくりをしようと考えていたのである。まずは中央集権化によって政府権力を強化することが先決であり、政府主導による経済発展と、教育基盤の整備とによって国民を育成していくことが必要だというのがこの時期の大隈の考えであった。

第二章 近代国家日本の設計―明治新政府での活動 43
明治維新の理念 43
「統治」と「民意」 44
長崎鎮定 45
井上聞多(馨)との出会い 46
浦上キリシタン処分問題 47
パークスとの舌戦 48
横須賀造船所問題 49
外交的能力 51
外交から会計へ 52
金札の信用回復と「円」の誕生 53
全国統一を目指す 55
築地梁山泊 56
維新派と復古派 57
鉄道敷設を主張 58
レイ借款問題 60
進歩的施策の断行 62
地方官の反撥 63
民蔵分離問題 64
当時の大隈の性格 65
参議に就任 67
大久保の大蔵卿就任 69
廃藩置県の断行 70
使節団派遣の提案 71
約定書の取りまとめ 72
留守政府の取りまとめ役として 73
留守政府の改革 75
財政をめぐる衝突 75
改革と井上との板挟み 76
参議増員と太政官制潤飾 77
予算の公表 79
征韓論 80
大久保、大隈、伊藤の結束 82
江藤との訣別 82
台湾出兵 84
出兵中止命令と臨機の決断 85
三菱との関係 87
島津久光による弾劾 88
大隈の反撃と大久保、伊藤の支援 89
地租改正の完遂 90
秩禄処分 91
産業発展の基盤整備と輸出奨励 92
明治初年の大隈 93


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2017年06月28日

真辺将之『大隈重信』(中公叢書)第1章目次(数字はページ数)

1938(天保9)年2月16日、大隈重信は佐賀城下会所小路に生まれた。本章では、幕末期の佐賀藩士・大隈八太郎の活動の軌跡を概観した。大隈は、義祭同盟に参加して以来尊王論を唱えてはいたが、他藩の尊王派のように攘夷を強く主張することもなく、早くから外国の学問に目を向けていた。薩長土の多くの維新志士出身の官僚が攘夷運動に参加し、維新間際になってようやく開国派に転じたのとは対照的であった。そのことは大隈にとっての強力な武器となる。大隈は王政復古や戊辰戦争において、確たる功績を挙げたわけではなく、賞典録も賜与されていないが、幕末に学んだ洋学や、経済活動の経験に基づく才覚は、維新後の大隈が急速に頭角を現していく下地をつくったのであった。詳しくは『大隈重信 - 民意と統治の相克』 (中公叢書)を参照。
第一章 近代西洋との遭遇 ― 佐賀藩士・大隈八太郎 11
新時代の兆し 17
生誕 18
幼少年時代の修学 19
父の死と母の愛 19
内生寮に入学 21
藩校教育への反撥 22
経学派と史学派の対立 23
『葉隠』批判 24
南北騒動 25
義祭同盟 26
佐賀の蘭学 28
「愛国心」の誕生 29
蘭学寮での学習 30
桜田門外の変 31
蘭学寮教官となる 33
藩の富国策 34
長崎遊学と「蕃学稽古所」の設立 36
フルベッキから学んだもの 37
大政奉還を説く 39
出遅れた佐賀藩 40
低すぎるスタート地点 41

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2010年06月15日

関西学院作成の「大隈伯爵歓迎歌」

早稲田の 偉人よ 幸くあれよ
  私学の 誇りよ 幸くあれよ
自由と 正義と 理想のため
  天下の 青年 教へそだつ

君こそ われらの 光なれや
  大隈伯爵 万歳 万歳 万歳
日本の未来を 負ひて立てる
  われらの 使命は 高く遠し
先進後進 心あはせ
  世界の日本を 築きあげむ

君こそ われらの 光なれや
  大隈伯爵 万歳 万歳 万歳


1913(大正2年)秋、大隈重信は関西・四国・九州方面に講演旅行に出た。
この歌は、その九州からの帰途11月26日に関西学院を訪問した際に、関西学院校歌の替え歌として作られたものである。
大隈は講演旅行各地で大歓迎を受けているが、関西学院の職員・学生は、前日大隈一行が神戸に到着した際にも提灯行列を行って歓迎、また26日神戸を離れる際にも提灯行列で送り出すなど、特に強い歓迎ぶりを示している。この歌は、迎えの提灯行列、大隈の講演の前後の合計3回にわたって歌われた。
関西学院と早稲田は、運動部同士が対戦することはあっても、さほど強い交流関係にあったわけではない。大隈が援助した学校としては、同志社、日本女子大学などが知られているが、関西学院に関してはそうした話は聞かない。いったいなぜ関西学院がここまで熱烈な歓迎ぶりを示したのかということは、興味深い問題である。なおこの時、大隈は講堂入り口左側に樅の木を紀念植樹したというが、この木が今も生えているのかどうかということとあわせて、いずれ調べてみたいと思っている。

ちなみにこの約1ヶ月の講演旅行での総講演時間は54時間57分、聴衆は16万7100人にのぼった。
はからずも翌年、第二次大隈内閣が組閣されるが、こうした講演旅行で大隈の姿を目にした聴衆の多くは、その後大隈びいきとなり、それが大隈の重要な政治的リソースとなっていくこととなった。

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5 皇族版とは全然違う建物だった
5 明治の香り

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2009年12月22日

歴史小説>歴史学

12月17日に読売新聞の大阪版・高知版などに掲載された記事に「土佐藩京都藩邸資料 3人仮購入で県外流出防ぐ」というものがありました。記事の内容を要約すると「坂本龍馬の寺田屋事件についての報告書写しなどを含む574点の土佐藩の京都藩邸資料が、古物商から県外に売られそうになったところを、「土佐歴史資料研究会」のメンバー3人がとりあえず私費で購入して県外流出を防ぎ、その功績を県から表彰された」というようなものでした。高知県は11月末、これを1650万円で購入し、大崎富夫・県文化生活部長は「全国的にも反響の大きい資料。おかげで散逸させずにすんだ。ありがたい」と礼を述べたとのことでした。

既にWeb上では消えてしまっているのでリンクを貼れないのですが、手元にあるコピーによると、この記事の末尾には、資料が散逸されそうであるとのことを前記研究会に紹介した県立坂本龍馬記念館の森館長のコメントとして「この資料があれば歴史小説がもっと克明になるかも。膨大な資料なので、チームを作って解明していきたい」という談話が載っています。ちょっと残念なコメントではないでしょうか。

世の中の歴史認識が、やはり歴史小説>歴史学なのだということが、このコメントからうかがえます。しかし、資料の散逸を防ぐ理由が「歴史小説が克明になる」では、歴史ってのは結局娯楽でしかないのか、それじゃ必要ないんじゃないの?ということにもなりかねません。県立の記念館の館長のコメントがこうなのですから、世間一般の人々の認識は推して知るべきでしょう。

歴史学という学問が細分化・深化の一途をたどっています。こうしたなか、歴史学の論文や研究書を読みこなせる一般の人々というのはなかなか存在しなくなりました。かつて「自由民権百年運動」が人々に大きな影響力を持った時代とは違います。そうした中、歴史学の意義をどう一般の人々に伝えていくのかということが問われているといえるでしょう。しかし、これは言うは易く、行うは難し、です。

というのも、一般の人々が歴史小説を読むのはあくまでエンターテイメントとしてです。楽しみを得るためです。それに対して、学問としての歴史学はエンターテイメントではありません。単に「歴史の面白さ」を伝えるだけでは、空想を交えることも可能な歴史小説には勝てるはずもありません。しかし、面白みのない研究を人々が読もうとしないというのもまた事実。こうした状況のなかで、歴史学の徒は、いったいどうすればいいのか、頭を抱えるところです。

『坂の上の雲』のドラマ化で、近代史に関心を持つ人々も増えるでしょう。これはある意味チャンスであると思います。とはいえ、「司馬遼太郎の歴史観の誤りを糾す」という類の書籍や講演などがいくつかなされているようですが、それは、ちょっと違うのではないかという気がします。エンターテイメントである演劇や小説の作家を、歴史学の側が批判して意味があるとは、私は思いません。エンターテイナーにはエンターテイナーの使命があります。それは歴史学のミッションとは異なるものです。異なる目的のために創作活動を行なっている人を批判しても、決して生産的ではないし、そのようなものをどれだけの一般市民が読むのかも疑問です。

必要なのは、小説や演劇の歴史認識への批判よりも、むしろ、小説や演劇以上に市民に訴えかける力を持ちえていない歴史学への自己批判なのではないでしょうか。司馬遼太郎批判の本が、司馬遼太郎の作品以上に、人々に語りかける力を持っているでしょうか?否だと思います。市民に語りかける必要などない、という方ももしかしたらいるかもしれません。しかし少なくとも、歴史学という学問の意義だけは伝えていかない限り、このままでは歴史学自体が「事業仕分け」されてしまうかもしれません。いや現実に、大学のポスト削減などで、実際にそうなりつつあるように思います(もちろん意義のない学問なら、仕分けされてしまっても構わないのですが、歴史学は諸学の根本に位置する大事な学問だと私は考えます。これについては後日いずれ語りたいと思います)。

かくいう私自身、研究の殻に閉じこもってしまって、いくつか依頼された講演などをこなすほかは、市民に対して語り掛けること、歴史学の意義をアピールすることもほとんど出来ていません。日々の生活の糧を得る必要もあって、なかなかそうしたことには時間を割けないのが現実ですが、今後は、そうした発信を、少しでも心がけていけたらと思います。このブログもそうした手段の一つとして発展させることができたらと思います。

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2008年10月08日

引用文の怪

田川大吉郎の『政党及び政党史』(1929年刊)を読んでいたところ、1860(万延元)年、幕府が派遣した遣米使節副使の村垣範正が、アメリカで議会の論戦を観察した際に日記に記した言葉として次のような引用があった。

もゝ引や、腹がけ様な着物を纏へる者、凡そ五六百人、一堂に会して、数時間に亘って激論を交わす。中にも頭らしき者、高き所に登りて、拳にて卓を打ち腕を振り上げ、総髪を振り乱して論ずるさま、魚市場のせり売のごとく

田川は上記の観察を「批評し得て極めて妙」「その人の絶倫なる働きを見る」とした上で、さらに村垣の日記には次のように書かれているとしている。

我国の諸事、居住まいを正し、対手を正視し、いんぎんに対談する風儀、露ほども窺はれず、嘆はしき事なり

この村垣の日記にある議会見物の記述は割と有名なもので、最初の方の引用文は、昔尾佐竹猛が引いているのをどこかで読んだ覚えがあったが、後の方の引用を読んで、ここまで明確な比較の言葉があるとは知らず、一度原本を確認してみようと思って、図書館で調べてみた。

ところが、実際に日記を調べてみると、田川が引いている文章が、どんなに捜しても、無い。むろん、4月4日の条には、確かに米国議会観覧の記述があるが、その文章は「凡四五十人も並居て其中一人立て大音声に罵手真似なとして狂人の如し」「国政のやんことなき評議なれと例のもゝ引掛筒袖にて大音に罵るさま副統領の高き所に居る体抔我日本橋の魚市のさまによく似たりとひそかに語合たり」というもので、趣旨においては田川の引用と近いものがあるものの、文章はまるで異なる。

他の箇所に、地方議会などの観察記録があってそっちを引いたのかと思ってくまなく捜してみるも、見当たらない。翻刻の異版本なども確認してみたが、どれも同じであって、田川の引用のような文章は無い。別の日記とか報告書とかのものかとも思っていろいろ調べてみたが、そのようなものも見当たらないようである。念のために研究書もいくつか見てみたが、引かれているのはどれも同じ文章であった。

ということは、田川の引いているものが、間違いということになる。田川が、昔読んだあいまいな記憶に頼って書いたものなのだろうか。しかし、それにしては、一字下げにして、明確に原文からの引用という形式で引かれているのが気にかかる。しかも、「我国の諸事、居住まいを正し、対手を正視し、いんぎんに対談する風儀、露ほども窺はれず、嘆はしき事なり」というような文章は、それに類似する文章すら村垣日記には全く見当たらない。とすると、田川が自分で勝手に付け加えたということになるが、しかし前後の文脈から言ってわざわざ捏造する必要のある部分ではない。何らかの勘違いで済ますには、あまりに大きな違いである。

田川は歴史家ではないから・・・と言ってしまえばそれまでだが、あまりに引用文が違いすぎて、どうも腑に落ちない部分がある。他のどこかに、こういう文章があるような気もしてならないのだが・・・やはり単なる捏造あるいは記憶違いなのだろうか?

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2008年09月20日

大東文化大学大東文化歴史資料館「井上哲次郎・新資料の紹介〜大東文化学院創設をめぐる人々(一)〜」

080919_131719.jpg 大東文化歴史資料館展示室で行われている「井上哲次郎・新資料の紹介〜大東文化学院創設をめぐる人々(一)〜」を見てきました。

 内容的には、展示スペースの関係からか、実物資料の展示が少なくて、半分はパネルだったので、ちょっと残念でした。また資料の来歴や全体像についても解説がなされておらず残念。

 『大東文化歴史資料館だより』4によれば、2007年度に入手したもので、約350点にわたるとのこと。整理された暁にはより詳しい概要が明らかになるのでしょう。楽しみです。


展示は26日金曜日までです。興味ある方は急いでどうぞ。

詳しくはこちら
http://www2.daito.ac.jp/jp/modules/topics/index.php/J01-01-6564-01



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2008年05月31日

忍峡稜威兄と〔石+殷〕稲綺道秀

表題を見て、この名前を読めた人は、かなりのマニアですね。
両方とも、明治期の人物です。

前者「忍峡稜威兄」は、当時の史料などを見ていると時々見かける名前なんで、知っている方も多いかもしれません。
「忍峡」までが苗字で「おしお」、「稜威兄」は名前で「いずえ」と読みます。読み方は「おしおいずえ」ですが、旧仮名遣いで名前を書くと「おしほいずえ」となります。

後者は、いきなり一文字目の漢字がパソコン入力だと出てこないほどの難文字。読めた方はいるでしょうか?「〔石+殷〕稲綺」が苗字で「おたぎ」、「道秀」が名前で「みちほ」、つまり「おたぎみちほ」と読みます。


忍峡稜威兄は、岡山県出身の民権家で、明治11年6月『好事雑報』という雑誌を創刊、明治12年12月は、桜井静の呼びかけに応じて、両備三国三十一郡十一区千百七十一ヶ村六十ヶ町の総代として、国会開設建白書を奉呈した人物で、岡山県会議員も務めました。
参考:前田昌義「国会開設請願運動の備中国総代・忍峡稜威兄について」(『倉敷の歴史』14)、前田昌義「忍峡稜威兄『通俗日本国会新論』」(『岡山地方史研究』102)

〔石+殷〕稲綺道秀は『詩歌襍輯』『観光小誌』『桂林一枝』といった漢詩和歌に関する雑誌に関わっていた人物で、昭和期まで存命だったようですが、詳細はよくわかりません。


以上豆知識でした。

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2008年03月31日

250年後に大富豪を・・・

明治34年発行の雑誌を読んでいたら、

東京市京橋区の阿部家が設立した「長期鳳尾会」なる会が、第一銀行に金3千円を250年間預け入れ、契約満期の暁には「拾弐億万円の富豪を後代に輩出するの規約書」を結んだとの記事が出ていました。


この契約って一体どうなったんでしょうね・・・。今も有効なんでしょうか。

明治34年=1901年の250年後というと、2151年。まだあと140年近くも先の話ですね。

しかし、預け入当時の3000円と、140年後の12億円と、いったい物価的にどれくらいの価値上昇になるんでしょう。インフレで事実上の元本割れになってたりして(笑)

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2007年03月07日

早稲田大学校歌3番の歌詞について

早稲田大学校歌は、早稲田大学創立25周年を記念して、明治40年(1907年)に制定されたもので、今年でちょうど制定100周年である。歌詞とメロディの素晴らしさは多くの人を虜にし、今日では大学校歌の中でもとりわけ有名なものになっていると言って良い。学生や卒業生全体に占める校歌を歌える人間の比率も、おそらく他の大学に比べてダントツに高いのではないか。

ところが、その有名な早稲田の校歌の歌詞が間違っているのではないか、という疑惑がある。校歌3番の歌詞である。

今、大学のホームページに出ているものを見ると、3番の歌詞は次のようになっている。

あれ見よかしこの 常磐の森は
心のふるさと われらが母校
集り散じて 人は変れど
仰ぐは同じき 理想の光
いざ声そろへて 空もとどろに
われらが母校の 名をばたたへん
わせだ わせだ わせだ わせだ
わせだ わせだ わせだ

「集り散じて人は変れど仰ぐは同じき理想の光」のくだりは私も校歌の中で一番好きな部分で、歌っていると学生時代が懐かしく思い出されて涙すら出そうになるのであるが、問題の部分はそこではない。冒頭の「あれ見よかしこの、常磐の森は」の部分である。

この「かしこの」の部分が、正しくは「あしこの」なのではないか、というのが、その疑惑である。昭和中ごろまでに在籍していた卒業生の中には、「自分は学生時代『あしこの』と歌っていた。『かしこの』というのは間違いだろう」とおっしゃる方も結構多く存在するようである。大学にも問い合わせがしばしば寄せられるようだ。

冒頭でも述べたように、早稲田大学校歌が作られたのは、早稲田大学の開校25周年式典の時である。その時に歌われた歌詞を調べてみると、確かにこの時の歌詞は「あしこの」であったらしい。作曲者東儀鉄笛自筆の楽譜にも「アシコノ」と歌詞が振られている。そして何より作詞者の相馬御風自身が大正3年に書いたもののなかでも「あしこの」とハッキリ書かれているのである(毎日新聞社所蔵深見豊蔵宛書翰、この他早稲田大学図書館所蔵の御風の額にも「あしこの」とある)。

ところが、大正4年9月に、前坂重太郎が和声を作曲し東儀の校閲を経て演奏した「ワセダマーチ」の楽譜には「かしこの」と記されているらしい(筆者は現物未見)。また、昭和6年「紺碧の空」レコード発売時の校歌の歌詞や、昭和7年刊行の『早稲田の半世紀』掲載の歌詞などでは「かしこの」となっている。この頃から、「かしこの」と記された歌詞が増えてきて、それは「あしこの」と記されたものよりも圧倒的に多くなってくる。

そして何より問題なのが、昭和17年に作詞者・相馬御風が高等師範部国語漢文科卒業生のために執筆したものが、明らかに「かしこ」となっていることである。こうなってくると、単なる「間違い」では済まされなそうになってくる。何より作詞者自身が、当初「あしこの」と書いていたのに、後には「かしこの」と書くようになっているのである。

『早稲田大学百年史』の記述によれば、「あれ見よあしこの」の部分は「あ」の頭韻を踏んでおり、いわゆるalliterationの自然の調子が整えられているのであり「あしこの」でなくてはならないとの主張も存在するようである。しかしながら、作詞者の相馬御風自身が二通りの書き方をしている以上、どちらが誤りということはできないであろう。

なぜ当初「あしこの」と書いていた相馬御風が、後に「かしこの」と書くようになったのだろうか。歌いやすさを元に変改されたのか、それとも、「かしこの」という歌い方が普及してしまったためにそれを追認したのか、いずれかはわからないが、「あしこの」から「かしこの」への改変は作詞者自身が認めているものであり、「間違い」とは言えなそうである。

しかしながら、冒頭でも記したように、昭和の半ばごろまでは、「あしこの」と歌う学生も多くいたようであり、これが後に大学でも問題になったようである。理事会でもこの問題は協議され、その結果大学は昭和47年3月17日の『早稲田大学広報』にて、常任理事の名で、下記の通知文を出すことになる。

わが早稲田大学校歌は、明治40年、相馬御風作詞、東儀鉄笛作曲により、創立25周年を記念して制定され、爾来、学園関係者の間に愛唱され続けてきましたが、最近、3番第1節が、「あれ見よかしこの常磐の森に」と「あれ見よあしこの常磐の森に」の二様に歌われたり、印刷されているものが見受けられます。これは、作者相馬御風先生ご自身が両方書き残されていることに起因するものと思われますが、あとに書かれたもの(昭和17年頃の揮毫と思われる色紙)に、「あれ見よかしこの常磐の森に」と書き記されており、また、先生は昭和25年5月8日に永眠されておりますが、先生の在世中も永くこのように歌われてきたことに鑑み、今後次のように統一いたします。
(以下現行の歌詞が書かれているが省略)

このようにして、現在では「かしこの」が大学公認の正式な歌詞になっているのである。

なお、「早稲田の森」の部分を「早稲田の杜」、あるいは「常磐の森」の部分を「常磐の杜」としている歌詞をたまに見かけるが、これは相馬御風のものも、大学のHPも、みな「森」と書かれており、「杜」は誤りである。
ただし、歌詞に限定せずに考えると、大学が出した出版物などにも「早稲田の杜」という言葉はしばしば散見されるところである。こちらはいつごろから使われだした言葉かはわからないが、現在の早稲田には「森」と呼べるほどの緑はないため、こちらの方がしっくりと来る感じもする。もともと使い始めた人も、「森」の字からくる違和感をなくすために「杜」の字を当てたものであろうか。


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