本史料の位置づけについては、小沢栄一『近代日本史学史の研究 幕末編』(吉川弘文館』、1966)、真辺将之『西村茂樹研究』(思文閣出版、2009年)第一章・第二章を参照のこと。なお本テキストは校正前のものであるため、利用にあたっては原本を参照されたい。
万国史略序(原漢文)
史に本国の史有り、他国の史あり、古に資し以て今に鑑るは則ち本国史の用なり、彼に資し此に鑑るは則ち他国史の用なり、夫れ国史を以て鑑と為せば、則ち聖賢仁政の流風、英雄功業の遺迹、数十年を経ると雖も、近きこと親睹するが如し、其の身に切にして、時に要なること、大に他国の史に勝るに似たり、然るに其の聖賢と曰ひ英雄と曰ふ者、皆一国の聖賢英雄にして、天下の聖賢英雄にあらざるなり、其の仁政と曰ひ功業と曰ふ者、一国の仁政功業にして天下の仁政功業にあらざるなり、本国の聖賢英雄を以て、以て之に加ふる莫しと為し、之を尊崇し模範とす、安んぞ知らん、天下に聖賢英雄本国の称ふる所に勝る者有らざらんや、本国の仁政功業を以て、以て之に加ふる莫しと為し、之を敬重し慕倣す、安んぞ知らん、天下に仁政功業本国の称ふる所に勝る者有らざらんや、然れば則ち史を読む者、徒に本国の史を以て自ら足れりと為すべからず、我が邦古より支那の史有り、国史と世に並び行はる、其の載する所の聖賢英雄仁政功業の迹、或は国史の記する所に勝る者有り、是を以て明君賢相、必ず支那の史を読むを以て務と為す、能く其の先んずる所を知る者と謂ふべし、然り而して古の時、人智未だ闢けず、見聞猶隘し、学者苟しくも能く和漢の書に通ずれば、則ち自ら以て学術の蘊を尽せりと為す、人亦従て之を許す、今は則ち然らず、四海交通し、七洲梯航す、五方の言、戸庭に会し、万国の書、几案に聚まる、故に五方の言に通ずるに非ざれば、以て博を言ふべからず、万国の書を読むに非ざれば、以て学を言ふべからず、古の儒を以て称する者、今より之を見れば、其の見る所一偏に局して、其の論ずる所固陋を免れざる者多し、今其の一端に就きて之を論ぜん、儒は国の政体を以て封建郡県の二者に帰す、而して米利堅は二者の外に出て、別に合衆政治を立て、其の国の隆、大に漢唐に軼ぐ、儒者制財の道を以て、入るを量り出るを為すの一語に帰す、而して法蘭西比里敦諸国、其の説に反し、出るを量り入を為すの法を以て財用を制し、其の富強実に万国に甲たり、特に此れのみに非ざるなり、天文地理暦術算数より、以て兵法医術性理政治の事に至る皆然り、余故に曰く、書読まざるべからず、而して最も泰西の書を読まざるべからざるなり、芸学ばざるべからず、而して最も泰西の芸を学ばざるべからざるなりと、頃ろ蘇各蘭人載多拉の著する所の万国史略を得る、上埃及の史より、下近代の事に至り編して一本と為す、蓋し史の最も簡略なるものなり、職事の暇、訳すに国語を以てし、以て後世の課読に資す、文粗野なりといえども、義通ずべきに似たり、能く此の書を読めば則ち安敦奥哩都の厚徳を知るべし、或いは宜しく殷湯周文の盛に比すべし、而して彼得弗勒得力の偉略、遠く秦皇漢武の上に出づ、肉刑を除き、罪囚を縦すは則ち病院幼院の普く衆を拯ふに及ばず、匈奴を退け、河源を求むるは、則ち荒漠の野を開拓し、海外の国を征服するに如かず、然れば則ち史を読む者は、固より国史を以て足れりと為すべからず、而して又支那の史を以て足れりと為すべからざるなり、必ずや泰西の史を以て主本と為し、参ふるに支那の史を以てし、以て本国の事に鑑れば、則ち大過無きに庶幾からん
慶応丁卯冬十一月、庸斎陳人西邨鼎京師の旅寓に識す